お知らせ

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遺言、書いてありますか?

 皆さんは、遺言を書いてありますか?まだ、遺言など早いと思っている方、縁起でもないないと思っている方、いや、私はちゃんと書いてあります!という方など、様々でしょう。

 禅僧は、一年の始まりに遺偈(心境を綴った短い漢詩)・遺言・遺嘱などをしたためます。いつ死んだとしても、後の人に迷惑を掛けないようにという配慮と、禅僧としての心意気を示すものです。親の葬儀の時に兄弟仲が悪くなったり、親戚ともめたりということも増えてきています。49日忌や一周忌を別に行ったりする事例も見られるようです。財産分与や法律的なことは他のホームページに譲り、ここでは、「こんな遺言いかがですか?」という提案をさせて頂きます。

 SO-NETブログのしょーえんさんのところの記事に「永代遺言」というのがありました。

「 お参りありがとう 大丈夫 生きていれば 何とかなる  先祖 」

 ご先祖様から子孫へのメッセージを墓石に刻んで残している例です。

 しょーえんさんは筑波山の近くのお寺の若い住職さんで税理士もしています。

 これを見て私も、遺言って、遺産の分与に関するものだけではないんだなと思いました。私も、今年は、遺言に項目を追加し書き直しました。 それは、家族へのお礼の言葉と子ども達へ仲良く元気に暮らしなさいという教えです。財産の分与だけでなく、子孫に伝えたいことを遺言の形で残して置くのは大切なことだと思いました。

 皆さんもあらためて遺言を書いてみませんか。お世話になっている人への感謝の言葉を添えて・・・

2006-02-01 | Posted in 月々の法話Comments Closed 

 

元旦の朝の坐禅会でした!お雑煮を頂きました。

皆勤賞は江尻置さん、菊池隆さん、高安博文さんでした。
2006-01-01 | Posted in 坐禅会Comments Closed 

 

時は飛び去らない

 平成18年の正月を迎えました。「一月は行く、二月は逃げる、三月は去る」などと言います。お正月を迎えたと思ったら、月日というものは、あっという間に過ぎていきます。
 歳をとると月日の経つのが早く感じられたり、楽しい時間はあっという間に過ぎて、辛く苦しい時間は長く感じるものでもあります。初めての体験では時間が進むのが遅く感じ、一度経験したことは、時間の進むのが早く感じられたりもします。小さい頃、時間の進むのが遅く感じるのは、そういう理由もあるかもしれません。七歳の子どもにとっての一年はそれまでの人生の7分の1、、七十歳の人にとっての一年はそれまでの人生の70分の1に相当する訳ですから・・・。

 道元禅師は『正法眼蔵』有事(うじ)の巻の中で、「山を渡り、河を渡った時のわれというものがあれば、われにその時があり、その時というものは、飛び去ってなくなるものではない」という事が述べられています。一般的には、過ぎ去った時はもう無いと考えますが、道元禅師は、「われ」という人間が存在する限り「その時」も存在し続けると示さています。人間は、その時その時を無駄にせず、いつも真剣に修行を続けることが大事だという教えだと理解して良いのではないかと思います。
  
 その人間が行った行為は、たとえ時が経過しても消えることはありません。時は飛び去らないのです。昨年も凶悪な事件や悲惨な事故が起こりました。その時の行為の結果から人間は逃れることは出来ません。一生ついて回るのです。

 その時、その時の自分に責任を持って生きていくことこそ人間に求められるものではないでしょうか。

2006-01-01 | Posted in 月々の法話Comments Closed 

 

ついに気温は氷点下4℃

2005-12-04 | Posted in 坐禅会Comments Closed 

 

百尺竿頭進一歩

 大本山永平寺での修行中、何度か古参和尚に「百尺竿頭進一歩」といわれました。古参に言われた言葉には、素直に心に届く言葉と、反発する言葉があります。この言葉は、なかなか理解し難い言葉でした。百尺の竿の上から、一歩を進めたら、まっ逆さまに転落です。臆病な私は一歩を進めるどころか、しがみついた手を離さないでしょう。

 この話は、中国禅宗の禅問答を集めた「無門関」第46則にあり、「正法眼蔵随聞記」の中では、道元禅師が述べた古人の言葉の引用として紹介されています。
 「学道の人、身心を放下して一向に仏法に入るべし。古人云、百尺竿頭如何が歩を進めんと」
 目標を達しえたとしても、そこに安住すれば怠惰につながってしまいます。そこで、さらに一歩を進めろと古人は喝を入れるのです。
 
 人生においても、自己保身をかなぐり捨てて、一歩を踏み出さねばならない時があるかと思います。一生の大事を決める時、思いっきりぶつかってみる!ぶつかって砕け散る事もあるでしょう。でも、そうしなければ何も始まらないのではないでしょうか?鳥が孵化する時は、自分の殻を破って世に出るのです。殻の中にいたのでは何も生まれず、何も始まらないのですから・・・・。
 私自身の戒めとして、身心を放下して、さらに一歩を進める禅僧としての覚悟を忘れない人生を送っていきたいと思います。

2005-12-01 | Posted in 月々の法話Comments Closed 

 

気温は5℃けっこう寒かったです。

2005-11-06 | Posted in 坐禅会Comments Closed 

 

収穫の秋

 厳しい大本山永平寺での修行中、一番感じたことは、「人間が生きていくうえで何が必要最低限のものか?」ということであり、それは、食べることであり、寝ることである。ということだ。食事と睡眠時間を極端に制限される修行の中で、人間にとって一番必要なものが見えてくる!すなわち、人間を育て、生きる力を生み出してくるのは食べることであり、身体をしっかり休めることである。
 高度経済成長の時代が終り、心の豊かさが求められる時代となり、食べることの大切さが見直される時代になった。ブログでも、家庭菜園の記事を載せている人は多い。私も、ブログの山寺日記に畑で作っている野菜を紹介しているが、いつも、反響の大きさに驚かされている。スーパーマーケッへ行けば一年中新鮮な野菜が手に入る。しかし、それだけでは物足りないと思う人も増えている。種を撒いたり植え付けてすぐに食べられる野菜もあれば、半年、一年かけて収穫にこぎつける野菜もある。蒟蒻などは3~4年かけてやっと収穫できる。時間と手間はかかるがそれだけに収穫の喜びは大きい。8月に開業したつくばエクスプレスの沿線では家庭菜園つきのマイホームが売り出されて注目を浴びているという。野菜を作る喜び、収穫の喜びを知る人が増えてきたのではないだろう。
 以前は里芋をあまり食べなかったうちの子どもたちが、一緒に芋掘りをしてからは、里芋が大好きになった。実際自分で育てた野菜たちは本当に美味しいのである。

2005-11-01 | Posted in 月々の法話Comments Closed 

 

涼しくなってきました。

2005-10-02 | Posted in 坐禅会Comments Closed 

 

カラッとした心

10月になると、水や空気が澄みわたり、なんとも気持ちがいいものです。これから紹介するお坊さんはそんな秋空のように爽やかな方です。
その方が住職をされている、お寺を訪れると、お坊さんにも、おじいちゃん、おばあさんにも、そして、こどもにもお母さんにも大きな住職さんの声がとんできます。
「こんちわ~!元気かい~?」・・・ この、元気かい~?が何ともよいのです。疲れた様子のおばあさんもこの「元気かい~?」の声を聞くと、いっぺんに若返って元気になります。
格式の高いお寺の住職でありながら、誰に対してもこびをうったり、威張ったりすることはありません。回りが心配する位私利私欲が無く、私財を次々に投じて、境内を整備し、坐禅堂まで建ててしまいました。身体を使って働くことが好きで、朝早くから、動物の世話をしたり、畑の手入をしたり、一日中働いています。ふいの来客にもいやな顔もせず、親身になって相談に乗ってあげます。
私も見習いたのですが、なかなか持って生まれた引っ込み思案な性格で、「元気かい~?」の挨拶が気恥ずかしくて出来ませんが、いつかそんなふうになりたい、澄み渡った秋空を見て思いました。

2005-10-01 | Posted in 月々の法話Comments Closed 

 

残暑があって蒸し暑い朝でした。

2005-09-04 | Posted in 坐禅会Comments Closed 

 

日本の宗教は祖霊崇拝

戒名をつけて頂き、仏教で弔われた戦没者が神様として、靖国神社に祭られているというのはおかしい!という方もいるかと思います。靖国神社については政治問題、国際問題になっているのでここでは深くはふれませんが、一般的な日本人にとっては、それは別におかしいことではないともいえます。 それは、ふだんの信仰にもあらわれています。お葬式は仏式で行っても、お正月には神社に初詣をする人も多いわけですが、実はそれも日本人の意識の中ではあたりまえの事です。仏教徒といっても特定の宗派の教義を信奉しているというよりは、祖霊崇拝が信仰の中心になっているからです。仏教自身が、教義を、広めるというよりも、その祖霊信仰の中に進んで取り込まれていくことにより、勢力をひろげてきたともいえる訳です。神社もお寺も自分達の祖霊を祀る存在です。そして、祀られた祖霊が自分達や子孫を守ってくれるというのが信仰の根底にあるわけです。 日本人は、山・太陽・滝など、大自然を崇拝しそこに神仏を見出してきました。仏教や神道もそうした日本人の原初的信仰と一体化されていたです。明治以降、神仏分離により、そうした神々への信仰が国家神道へと、また、仏教へと分離された訳ですが、心までは分離されなかったともいえる訳です。 檀信徒のお寺に対する期待は、葬儀や法事など先祖供養です。僧侶としては坐禅などにも親しんで頂きたいと思うのですがなかなかうまく行かないのもそのあたりに原因があるのかもしれません。最近、そうしたあたりまえの日本人の信仰というものを大切にしていきたいとも考えています。その中で、仏の教えを分かりやすく伝えていきたいと思います。早いものでもう9月、秋のお彼岸ですね。
2005-09-01 | Posted in 月々の法話Comments Closed 

 

朝霧が立ち込め、蒸しました・・・

2005-08-07 | Posted in 坐禅会Comments Closed