仏事コーナー

仏事コーナー

亡くなった人の供養は年回毎に行われます。亡くなった翌年は一周忌、その次は三回忌、「エッ!どうして一の次が三なの?」と疑問に思う方もおありかと思います。
実は、年回というのは亡くなったその年から数え始めます。亡くなった年が一回忌、その翌年は二回忌、別な言い方で一周忌と呼びます。その次の年は三回忌となりますので、一周忌の翌年が三回忌になるわけです。
その後は、七回忌・十三回忌と三と七のつく年に年回の供養をし、三十三回忌が追善供養の修めとなります。さらに供養をされるときは、報恩供養として年回を行い、五十回忌、百回忌などを行うこともあります。尚、年回の勤め方は地域によって違う場合もありますので菩提寺の住職にご確認ください。

お寺さんの使う言葉で、読み方が難しいものがたくさんあります。仏教に由来するもの、お寺さんが良く使う言葉を書き出してみました。かっこ内が読み方です。
陳者(のぶれば)・法会(ほうえ)・建立(こんりゅう)・懺悔(さんげ)・施食会(せじきえ)庫裡(くり)・東司(とうす)・坐禅(ざぜん)・行灯(あんどん)・須弥山(しゅみせん)・薬石(やくせき)・開眼(かいげん)
意味は、わかりますかね?わからない時は、小参問答の掲示板に質問して下さい。

お坊さんが、書簡の最後に署名する時、「九拝」や「合掌」と添えます。これは、実際にお拝(ハイ)や合掌する代わりです。
お拝というのは、インドの五体投地の礼賛法が伝わったもので、即ち、「両手両足に頭を地に着けて伏し拝む」のが「拝」です。それを、三回行うと三拝で、三拝を三回行うと九拝になります。これでかなり丁寧になるのですが。弟子が師匠に書簡を送る場合は、さらに丁寧に「百拝」と書く場合もあります。師が弟子に書くときは「拝」「和南」などと書きます。和南というのは合掌し頭を下げることです。
「合掌」とは、手を合わせて拝むことですが、これはインドの挨拶です。「ナマステ」といって手を合わせ頭を下げる挨拶が、仏教とともに伝わったと考えられます。
仏教でも人生でも、挨拶が基本です。これは、世界中どこに行っても基本です。相手の人権を尊重し、相手を拝むことは仏教にとってとても大切な行為なのです。

「ウソも方便」という言葉は仏教に由来する言葉です。また、「うそつきは泥棒の始まり」ということもよく言われます」
それでは、ウソをつくことが許される場合とはどういうときでしょうか?。
子供は自分を守るために小さなウソをつくことがあります。そうしたウソをゼッタイにいけないんだと責めたことがありませんか?
仏教にはウソも方便という言葉があります。社会的に弱い立場の人、こどもなどは場合によってはウソをつくことが許されるのです。ただし、その後、懺悔しなければなりません。仏様にウソをついたことをわび、心から反省することが大切です。
政治の世界などでもウソをついて、辞職においこまれる方がおります。心から反省することが必要かと思います。
相手のことを思いやってついたウソなどは、許される場合もあります。しかし、出来ればウソをつかずに正直生きたいものです。

以前にも六曜について、書きましたが、21世紀になっても、迷信として残っていることが私には不思議です。
家具屋さんなども、大安の日に納品しなければ、ならないので大変だといっていました。
忙しい大安の日に納品してもらうより、仏滅の日にゆっくりし納品してもらった方が、良いサービスを受けられると思いませんか?同じことは結婚式にも言えるでしょう。最近結婚式場をやめて葬儀屋さんのセレモニーホールになったところがありました。結婚式は、大安の祝祭日に集中するので、利益が薄く、葬儀場は、季節的変動はあるものの結婚式場よりもはるかに効率よく営業できるそうです。
友引は、「争ったが勝負がつかず共に引いて引き分け。」というのが、語源であり、けっして友を引っ張るという意味ではなかったのです。ご存知でしたか?

族に亡くなった人が出て、初めてお仏壇を購入する人が多いのですが、出来れば家を建てたら必ずお仏壇を求め、御本尊さまを安置し、御先祖様のお位牌をまつっていただきたいものです。
家庭の中心にある、お仏壇は心のよりどころとなります。
禅寺の一日は、朝の暁天の坐禅で一日が始まり、夜坐で一日が終わります。
皆さんも、朝起きたら、お仏壇の前に静かに端座して、心を落ち着けて一日をはじめ、一日の終わりもお仏壇の前で、静かに座り一日を省みて就寝する。そんな生活を心がけてみませんか。
そうした、一日一日の積み重ねを続けていくと、これまでと違った人生が送れると思います。
あわただしい現代社会であるからこそ、静かに座る時間は貴い時間となることでしょう

お坊さんに話しかけるときに皆さんは、なんと呼びますか?
宗派によって違うこともありますし、立場によって違うこともあります。
こどもたちからは、「お坊さん」と呼ばれることが多いのですが、「はげ」と呼ばれることもありこれには苦笑いです。
檀家の人からは「方丈さん」とか「住職さん」と呼ばれることが多いです。曹洞宗以外では、「上人さま」「御前さま」と呼ぶ慣わしのところもあるようです。中国へ行った時は、「和尚(わしょう)」と呼ばれました。
先生と呼ばれることもありますが、僧侶は人々の上に立って教えるのではなく、人々の傍らに立ち一緒に歩んでいくのが大乗仏教の僧侶の立場だと思っているので、先生という呼び方を私はあまり好みません。
近所の人は、私を子供の頃のまま「しょうえいちゃん」と呼んでくれます。これも悪くありません。

私が住職になりたての頃、清めの塩を使わないでいると、会葬者が、「どうしてお清めしないのですか?」と聞かれ、「お坊さんはもともと清らかだから、清めなくてもいいんですよ」と答えていました。
私ども曹洞宗では清めの塩を使う事はありません。仏教そのものが清めの塩など使わないのです。神道では、塩を使いますが、御霊の帰るところを払うのであって、葬儀場がけがれているからという理由で祓うのではないのです。
塩をまいて清めるというのは全く意味の無い失礼なことだとご理解ください。本当は清めなければならない、けがれたものは葬儀の場には無いのですから。  

参考文献『曹洞宗ブックレット宗教と人権4』

天と地を指し示した誕生仏は命の尊さを表現しています。
命はオギャ-と生まれたときに始まり、死んだときに終わるのでしょうか。
「いのち」は、父と母から受け継ぎます。そして、その「いのち」につながるものは父と母が生まれる以前からも存在しているはずです。そして、その命は、はるか大昔から続いてきたことは確かです。もし途中でその「いのち」が途切れていたらどうでしょう。「わたし」という存在は、この世に生まれて来なかったでしょう。すべての生きとし生けるものはそのような、尊い命を受け継いだ存在なのです。4月8日は花祭りです。お釈迦様に甘茶をかけて、ご家族で命の尊さを話しあってください。

今では、あたりまえにお坊さんがお葬式をしていますが、大昔は一族の長老が葬儀を司祭していたそうです。道元禅師の頃はもちろん、その後も僧侶が一般の人の葬儀を行うことはありませんでした。時が流れ、一般の人も僧侶に葬儀を頼むようになりました。(当山では寛文年間-約340年前からの記録は残っています。) そこで僧侶は、没後作僧(もつごさそう)、亡くなった人を僧とみなして亡僧葬儀法によりお葬式をとり行いました。これが、葬儀の最初に授戒を行う由縁です。仏教徒といたしましては生きているうちに生前授戒で戒名を頂いておくのが望ましいといえるでしょう。

現在日本で一般に行われている火葬はお骨を拾ってその後、墓地に納骨します。
これは、インドの遺体を火葬し、灰にして川など流す風習と、日本古来の土葬の風習が融合したものです。いってみれば純粋な火葬ではなく埋火葬といえるでしょう。
完全な灰にせず、骨を残しそれを壷に収めてお墓に入れるあたりに、土葬の名残が感じられます。
人は、お墓参りという行為を通じて、亡くなった方を追慕し敬愛の念を表します。死者を弔う方法には世界各地それぞれ宗教・民族の特徴があらわれています。
ところで、関東と関西では骨壷の大きさが違うことをご存知でしたか。関東の骨壷を関西に持っていくと大きすぎてお墓に入らないそうです。

友引・大安などの六曜は深い教義に基づいたものではありません。
たかだか百二、三十年前に確定した機械的に当てはめた曜日の一種です。
(参考文献―平成13年版 曹洞宗宝暦)
こうした吉凶の占いに頼る心情はわかりますが、曹洞宗の教えから見れば迷信であると言えます。
『一期一会』の出逢いを大切にし、一日一日を精一杯生きる。『日々是好日』なのですから。

全日本仏教会が戒名料という表現を止めることを宣言したのをご存知でしょうか。
しかし、よく戒名料が高いとかっていう話を聞きますよね。
戒を授かる(授戒)しるしにいただくのが戒名ですから、生きているあいだに戒名を受けるのが理想的な仏教徒のありようだと言えるでしょう。
戒名を授かりたい方はそれぞれの菩提寺に御相談してください。
戒名をいただくという事は、戒名を授けてくれた僧侶の弟子となり、一生ご指導を受けるということになります。
ちなみに曹洞宗の僧侶は、得度を受けたときに師匠から戒と安名と法衣を頂きます。
(曹洞宗では十歳以上。宗務庁の手数料は無料です。)
「戒名料はいくらいくらです。」などと言ってしまえる見識のない僧侶の弟子にはなりたくないですよね。