雑学

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鈴木泰全

 かつて私は、卑弥呼の治めた邪馬台国は日向国にあったと論じ、多くの学者も比定している様に卑弥呼を天照大神に比定しました。神話からも天照大神の活躍の舞台は高千穂であると特定されます。ちなみに投馬国はツマ国とも読まれ、筑後上妻や下妻が候補地とされていますが、宮崎県西都市であろうと思われます。
 西都市は西都原古墳群で知られ、天孫ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメが出会われたとされる場所です。この地に建つ都萬(ツマ)神社の主祭神はコノハナサクヤヒメであり、この地が当時「ツマ国」と呼ばれたことは充分に考えられるのです。                                   

 高千穂から海に出るには、東の日向灘へ延岡方面に出るか、熊本側に八代海に出るかの両方が考えられますが、「郡使の往来常に駐まる」とある伊都国に行くには、八代海から天草、長崎半島野母崎を通り、平戸瀬戸を抜けるコースがより近いと考えられます。
 手元の地図で距離の概数を測ると、糸島(伊都国の比定地)から八代海沿いの熊本県宇城市迄約256km、糸島から西都市を流れる一ツ瀬川河口付近迄、こちらは東廻りで約326kmである。                                         

 かつて琉球大の木村政昭先生は、伊都国から邪馬台国までの「水行十日陸行一月」を、「1、4ノットの速度」(時速約2、6km)で走れば、(鹿児島の投馬国から邪馬台国であろうと考えられる沖縄本島までの600kmを想定していました。)よいとされました。この速度を参考にすれば、1日に26km程を走れば、実に水行10日で熊本県宇城市にたどりつくことが出来ます。そこから国道218号線を東に進めば2日程で高千穂に到着することが出来ます。                                     

 一方投馬国へは一ツ瀬川河口までの約326kmを13日程で到着し、更に一ツ瀬川を進めば14日程で到着します。関門海峡の潮の流れは時間によって変化するということですが、潮待ち、風待ち、悪天候を考慮しても、15日もあれば充分に到着すると思われます。                              
 南に水行十日は、放射式に伊都国から海路十日程の所に邪馬台国があり、水行二十日程の所に投馬国があると読めるのであればその様にとらえるべきです。                                         

 ただし伊都国から邪馬台国(高千穂)へは西廻りで、しかも八代海からは陸路2日をかけて到着したと思うのです。投馬国(ツマ国)へは関門海峡を通って日向灘へ進んだでしょう。高千穂から四国、本州、出雲等へ行く時は日向灘から出航したものと思います。

 帯方郡から伊都国までの総里数は一万五百余里で、これは当時の短里=町里=1里約96mということです。 末盧国から伊都国まで、つまり松浦から糸島まで500里ですから、48kmに換算され、手元の地図でも49km程と計測できます。
 帯方郡から邪馬台国までは一万二千余里と記されていますから、伊都国から邪馬台国までは千五百余里、144km程と考えられます。 
 糸島から高千穂までの直線距離はほぼ132km、山坂や迂余曲折を考えると千五百余里にほぼ一致すると言えます。

 この距離は、徒歩で7日もあれば行き着くと思われますが、魏志の編者陳寿の魏・晋の里(1里=約434m)の感覚では、水行二十日、水行十日の合算三十日に鑑み、陸行1月となったのではないでしょうか。                                   

 伊都国から邪馬台国へは西廻りで水行することは、当事者には自明のことですが、細部に亘る事柄は省略されていた為に、文献によって筆を進めた魏志の編者には、抜け落ちた事実までを的確に把握することは無理なことだったと思われます。 

 しかしこの陸行1月の記述により、伊都国から邪馬台国まで陸行できることがわかります。 次の三点が邪馬台国に到る主要事項として示されています。 
  一、伊都国から邪馬台国まで陸路でも行けること。 九州内ですから30日は必要ありませんが、陸行で本州へは行けません。 
  二、伊都国からは南進であること。 伊都国から初めは西に進みますが、航海の大部分は南進です。本州の大和へはおおむね東進になります。
  三、伊都国から千五百里程の距離であること。伊都国から本州の大和へは、千五百里(約144km)ではたどりつけません。伊都国から水行十日も、陸行千五百余里も、どちらも高千穂に到る旅程範囲となります。 

 以上の三点からも、邪馬台国大和説は成立し難いことは明らかなことに思われます。

 一方、邪馬台国九州説は、魏志倭人伝の裏付けを得て、神話に書かれた高千穂や都萬国が鮮やかによみがえってくるのです。 

 邪馬台国と争った狗奴国も、その官に狗古智卑狗ありとあり、狗古智を「菊池」の古音と想定し、肥後国菊池(現在の熊本県菊池郡)に比定されています。

 また高千穂町に五ヶ瀬川付近で隣接している熊本県山都町は、町名が「ヤマト」であり、邪馬台国の領内とも考えられ、邪馬台(ヤマト)の地名の由来が、阿蘇山のふもと、山本、山門の意である様に考えられます。

 高千穂は宮崎県北西部の内奥の地ではあるが、大分にも熊本にも通じる交通の要衝です。また東に日向灘、西に向かえば八代海があり、東西に海を領し、古代宮崎にあって倭国を統治するには要の地といえるのです。

最近は、電気やガス炊飯器を使ってご飯を炊くことが多いと思います。
もし、災害などで、電気やガスが止まってしまった時、皆さんはどうしますか?
そんな時、昔ながらのお釜があれば安心です。
うちには、五升釜と七升釜があります。
それで、かなりの人数の食事の炊き出しをすることが可能です。

「はじめチョロチョロ、中パッパ、ブツブツいう頃火をひいて、赤子泣くともフタとるな!」
という言葉を聞いたことがあるかと思います。焚き方の基本を示した言葉です。
まず、お米をといで、釜に入れ分量の水を入れます。
水の分量は、米の量の100~120%(新米の場合は水を少なめ)
(水分量は水を吸わせた米と同量にすると間違いありません)
後は、カマドに釜をのせ、薪で焚きます。
難しいのは、火を落すタイミングです。
吹きこぼれたところで、火を落すのが基本ですが釜の大きさに対して、分量が少ない場合は、吹きこぼれないこともあります。
釜のフタをとると圧力が落ちますので、フタをとらずに中の様子をうかがいます。
ころあいを見計らって火を落し、10~15分くらい蒸らします。

火を落すのが遅れるとこげてしまうこともありますが、そのおコゲがまた、香ばしくて、いいものです。

下の写真は五升釜でご飯を炊いている所です。
思ったより短時間で、簡単に美味しいご飯が炊けます♪

皆さんは、歯を磨くとき、チューブ入り歯磨きをたくさんつけて口の中を泡立てて、ゴシゴシと磨いていませんか?
歯磨き粉には、研磨剤が入っているので、あまりつけない方がいいそうです。

正しい磨き方としては、水で口の中をすすいだ後、何もつけずに、歯のおもて、そして、歯のうらそして、歯の噛み合わせの部分も確認しながら、ざらつきがなくなるまで、ていねいに磨くことが大切そうです。
また、歯と歯の間を糸楊枝で磨くことも忘れずに。
仕上げに液体歯磨き少量つけて、軽く磨いて完了です。

道元禅師も歯の磨き方については詳しく示されています。

豆乳とニガリを使った簡単な豆腐の作り方です。

まず、一人用土鍋か手鍋を用意します。
それに、豆乳200ccから300ccを入れます。
2分から3分火を入れ、温まったところでニガリ大さじ一杯位を入れて手早くかき混ぜます。
その後は、弱火で固まるまで火を加えます。
固まったら、そのまま、アツアツでたべると美味しいです。

これからの季節、ポン酢などで味わって下さい。
使用する豆乳は未調整のものを使用して下さい。
豆乳やニガリの種類によっては良くかたまらない場合もあります。
分量を調整しながら、何度かためしてみて下さい。

「よー!しゃしゃしゃん しゃしゃしゃん しゃしゃしゃん しゃん」とつごう、十回手を叩くと一本締めになります。

それを、三回繰り返すことが三本締めというわけです。
歌舞伎の襲名披露や証券取引所の大納会などではこの、三本締めが伝統的に行われています。

三本締めでは、時間がかかるということで一本締めも行われるようになりました。

江戸っ子は気が短いということもあり、さらに、「よー!しゃん」と一回だけ手を叩く締め方も生まれました。
これが、関東一本締めです。