慕古の心
道元禅師の750回大遠忌まで、あと一年となりました。今年は、一年前に勤められる予修法要が日本各地で、世界各地で勤められています。 750年という気の遠くなるよな歳月が流れても、道元禅師が我々に教え示してくれるものは変わりません。「此、一日の身命は、尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり」と、その著書『正法眼蔵』で述べられている通り、一日一日を一生懸命修行として生きることが道元禅師の教えなのです。 永平寺の貫首で、曹洞宗の管長を勤められている宮崎禅師は百一歳です。僧堂まで行くのに時間がかかるからと言って、修行僧よりも早く起きて朝の坐禅に向かうのは、私が修行をしていた十八年前、監院職にあった当時と変わりません。その禅師さまが、今回の遠忌のテーマとしたのが『慕古』(もこ)です。慕古とは、ただ古いものを慕うだけではありません。教えを学び、それを現在に生かし、実践していくことがすなわち慕古なのです。 今も、永平寺では、道元禅師の教えそのままの修行が続けられています。どうぞ、この機会に永平寺を訪れてみてはいかがでしょうか。できれば、一泊して、永平寺のさわやかな風とせせらぎの音にふれていただきたいものです。2001-10-02 | Posted in 月々の法話 | Comments Closed
命の重さを感じて
7月23日は功多君の命日、近親者だけで静かに七回忌の法事が行われました。 今から6年前、功多君は、十二歳の時、梅雨が明けたばかり暑い日、友達と川遊びをしていて、水の事故で亡くなりました。愛情込めて育ててきた長男の突然の死に、お父さん・お母さんは、嘆き悲しみ、落胆振りは大変なものでした。お父さんの実家で営まれた葬儀の日は事故のあった日と同じとても暑い日でした。炎天下、同級生が大勢参列し、ご焼香していきました。参列したこども達は、子を失った親の悲しみがどれほど大きいのかを、そして、人が一人死ぬということはどれほど大変なことなのかを、身をもって感じたことと思います。NHKの朝の連続ドラマ『ちゅらさん』で「おばあ」が早く亡くなる子は、『命の大切さを人々に教えるために神様に選ばれた子供なんだよ』と恵理達に語るシーンがありました。身近な人の葬儀に参列し涙を流したり、涙を流す人を見るのは、子供たちにとって、貴重な経験になることでしょう。 お墓が整備されるまでの間、お寺で功多君のご遺骨を預かっていたのですが、毎月23日には、功多君の好きなものを持って、お父さんとお母さんがお参りに来ました。その頃、お母さんの後ろに恥ずかしそうに隠れていた功多君の弟が、今ではびっくりするほど大きくなっていました。一緒にお墓参りに行く時「身長何センチあるの?」って聞いたら、「180センチです。」とたくましく答えてくれました。高校でバスケットボールをやっているそうです。弟に「僕の分まで親孝行してくれよな」という功多君の言葉が聞こえてきそうな暑い夏の日でした。そして、功多君の弟も、お兄さんの死を乗り越え、命の大切さを感じながら成長してきたんだろうなと思いました。2001-08-01 | Posted in 月々の法話 | Comments Closed
縁起について
「縁起が悪い」というのはよく使う仏教用語ですけど、間違った使い方です。本来「縁起」に良いも悪いも無いのです。 縁起とは、お釈迦様の教えの中に出てくる言葉で、「縁りて起こる」ということです。すべてのことは、縁りて起こる。原因があって結果があるということをいいます。それが、通俗的に使われるようになって、縁起が悪いといって、死に結び付けて四を嫌ったり、苦につながるからと九を避けるのは、全く意味の無いことだといえるでしょう。四・九を避けるのだったら四国や九州から出て行かなければなりませんよね。 数字の四や九を避けても、暴飲暴食をしたり、乱暴な車の運転をしていたのでは死や苦は近づいてきます。食生活に気をつけ暴飲暴食をしない。車を運転する時や、道路を歩く時に十分注意をはらうというのが、死や苦を避ける有効な方法だといえるでしょう。 このように、冷静に考えると、普段あたりまえのように考え、行っている行動様式の中にも、こだわらなくてもいいことがたくさんあります。大乗仏教では「空-くう」、禅では「無」という言葉を使いますが、とらわれない心で自由に生きる!本当の仏教者は迷信に惑わされてはいけないのです。2001-07-01 | Posted in 月々の法話 | Comments Closed