大館とのご縁、そして、横山大観の出生地の秘話
大館市は、常陸から移封された佐竹氏の一族が、居城としていたので、茨城とは何かと御縁があります。そして、大館は、梅花を通じていろいろな御縁を感じる場所でもあります。
平成15年6月の法話で書かせて頂きましたが、梅花流特派師範として初めての公務が、実は、この大館市にある樹海ドームでの全国大会のスタッフ業務でした。
また、昭和63年に特派師範として茨城を巡回された佐藤廣俊先生は大館市にある本宮寺の住職でした。大子の町に宿泊された佐藤先生と、食事の後、宿の近くのスナックで、いろいろなお話をさせていただきました。巡回最後の夜ということもあり、リラックスされ、御自坊に電話を掛けられ、子供さんとお話している様子でした。佐藤先生は、現役特派在任中に病気で亡くなられましたが、その時、まだ子供さんは小さく、大変だったと思います。
今回、教育委員の視察で大館市立南小学校を訪ねた時、学区の地図の中に本宮という地名をみつけました。佐藤先生の御子息が立派に本宮寺の後を継がれ、地域社会で活躍されている様子を校長先生からお伺いすることができました。また、秋田の僧侶仲間からも、若手僧侶として、被災地の支援などに活躍している事を教えて頂きました。ハチ公の生家が、佐藤先生のお寺から近いことをお聞きしていたので、学区内見学として、思いもかけず、忠犬ハチ公の生まれた家を見学させていただくことができま御縁を感じた次第です。
さて、前記事で予告した横山大観の出生地の件ですが、大子の地で産声を上げていた証拠を目にすることができました。昭和33年2月27日発行の朝日新聞茨城版で
「この年の夏から秋にかけて、水戸藩では天狗派と諸生派が争い、城下には、銃弾が飛ぶという騒ぎ、それで、母は難を避けて、袋田の滝の近くの大子の竹林の中で、私を産み落とした」
と、語っているのが掲載されています。
水戸の酒井家で生まれたされた、横山大観が実は大子で生まれていたという秘話については、時代背景などを来月の法話でまとめてみたいと思います。
大館市に学ぶ地域キャリア教育
茨城が生んだ日本を代表する画家横山大観について、ここ数回にわたってふれてきましたが、水戸生まれとされる大観が、実は大子の地で産声を上げていたという情報が寄せられました。もし本当ならすごいことなので、さらに調査して来月にでもご報告したいと思います。
平成22年の6月に教育委員に就任し、残任期間を務めたあと、その年の9月から4年間務めました。平成26年の9月に再任されたので、さらに4年間の任期を務める事になりました。来年4月には、教育委員会の制度が変わります。特に教育長の立場や人事権など大きく変わるかと思いますが、児童・生徒の事を第一に考えて任務を果たして行きたいと思っています。
さて、8月に教育委員の視察で、秋田県大館市に行って、小学校と中学校を視察してきました。秋田県の大館市・角館市は、秋田へ転封された佐竹氏の一族が住した街です。全国学力テストでトップの秋田県の中でも、学力が高い地域でもあります。
大館市では、地域キャリア教育という旗印を掲げ、郷土についての勉強をし、地域の役に立てる人材に育てるということも視野に入れて教育しています。大子町もそうなのですが、熱心に教育をしても、優秀な人材は地元に残らず、外に出て行ってしまうというジレンマがあります。そういう意味からも大館市の教育は参考になります。
また、通学時の安全確保も重要な課題です。大子町では、この度、小学校に登下校する際に着用する通学ヘルメットを導入しました。近年、特に小学生が巻き込まれる傷ましい事故が多発しています。子育てに力を入れている大子町は児童の命を守るため、できることは実行していこうという姿勢で臨んでいます。
大館市は、忠犬ハチ公の生まれた町でもあります。そこで、また、御縁を感じる出来事がありました。その辺も含めて、詳しいことは来月綴っていこうと思います。
六角堂再建にかけた人たち
先月の続きです。映画「天心」の制作準備が進んでいた平成23年3月9日に、地元北茨城に映画に協力する委員会が結成されたそうです。しかし、その2日後、東日本大震災が発生、五浦に押し寄せた巨大津波で、天心ゆかりの六角堂は滅失してしまったのです。
六角堂というシンボルで、撮影の拠点を失った松村克弥監督は、茨城大学が再建にあたるのに協力しながら映画作りを進めていくことになりました。そして、ただ再建するというだけでなく、岡倉天心が創建した当時の技法で、当時のままに造ろうという方向でまとまり、震災復興ということと共にこの大プロジェクトが始まったのです。
その辺の裏話は、舞台挨拶でもあり、興味深く拝聴させていただきました。
震災前の六角堂には畳が敷かれていましたが、創建当時の資料に基づき、板の間に炉を切りました。ガラスは、当時の板ガラスを外国から購入してはめ込んだそうです。そして、外壁の板の色です。ベンガラ塗りといわれる技法を使って塗られました。自然な赤が五浦の景色に溶け込みます。この再現に大子の大工菊池均さんが関わったということを、茨城大学の課長で、再建作業の指揮を執った齋藤勝男さんが、舞台あいさつであかしてくれました。
映画では、天心が五浦に移ったあとの横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山の創作の様子が描かれていきます。特に、春草が極貧の生活の中から、新たな境地に到達し、名作を生み出す苦悩が描かれています。春草ファンの私には、たまらない展開でしたが、春草の絵が観た人の心に響く何かを持っているその理由が映画を観てわかりました。
天心という人物を、大観が回想していくということで、物語は展開されますが、大観自身は映画ではさほど描かれていません。
5月に、島根県の足立美術館で横山大観の名作をたくさん観てきました。横山大観にも大いに興味があるので、監督には、横山大観を描いた映画も作って欲しいと思います。
天心と六角堂の再建について
法隆寺や興福寺、我々は、当たり前のようにお参りしてますが、実は、明治の廃仏毀釈で、寺が壊され、仏像が焼かれそうになったそうです。その時、この日本の文化遺産を守るために尽力したので、フェノロサと岡倉天心でした。修学旅行で法隆寺や東大寺、といった奈良のお寺、清水寺や金閣寺といった京都のお寺を参拝してきたこうしょうにもその話をしました。
映画「天心」の冒頭のシーンで、その惨状をみて、なるほど、これは仏教界にとって、大変な時代だったのだと感じた次第です。龍泰院も明治期には荒廃し、本堂の草葺き屋根は雨漏りしていたそうです。その哀れな姿をみて、再興を志し、袋田の有志に協力をつのったのが、櫻岡源次衛門の孫にあたる、櫻岡三四郎翁です。(桜田烈士、関鉄之介をかくまったのが袋田の庄屋櫻岡源次衛門でした。)三四郎翁は、宮城県から石を取り寄せ、スレートで本堂の屋根を葺きました。私が子供の頃の本堂は、その薄い粘板岩で葺かれた屋根でした。昭和46年に銅板に葺き替えられましたが、四角い石の事はよく覚えています。
映画「天心」では、天心が東京美術学校を追われ、茨城県の五浦に日本美術院を設立する当時の様子が詳しく描かれていました。天心を守ろうとする連判状が、スクリーンに映された時、櫻岡三四郎という名前をみつけ、まさに、天心と三四郎翁が心を一つにして日本の美術を守ろうとしていたことが拝察できました。五浦で、横山大観、木村武山、下村観山、菱田春草らを育てた天心は、国際交流を進め、日本の文化・芸術を世界に紹介する役目を担いました。
日本美術院の象徴であった五浦の六角堂は、東日本大震災の大津波で滅失してしまいました。それが今は、創建当時そのままに再建されています。そのお話は、来月また書かせて頂きます。
おもてなしにだんだん
そう、最初に、出雲で全国大会が開催されるという話が持ち上がったのは、けっこう前の事です。平成21年に予定されてた大阪舞洲アリーナでの大会が新型インフルエンザの影響で中止になり、翌22年の開催となりました。そのため、22年に予定していた出雲大会は翌年の平成23年に開催することになったのです。しかし、そこで、起こったのが東日本大震災、曹洞宗では、全国大会の開催を中止し、震災復興に全力で取り組むことになりました。次の年は、5年に一度の記念大会ということで、60周年大会は千葉県の幕張メッセで開催されました。
さらに、25年は、東日本大震災三回忌法要を兼ねて宮城県での開催となりましたので、本当に待ちに待った島根県出雲カミアリーナでの開催となったという訳です。
地元島根の宗務所長さん始め、宗務所役職員の皆様、寺院、寺族の皆様にとりましても、満を持しての開催であり、感慨深いものであったと思います。
5月28日、茨城県宗務所梅花講の一行は、羽田空港から岡山空港へ飛び、バスで出雲大社へと向かしました。縁結びの神様として信仰を集める大社には、若い女性も大勢訪れていました。おりしも、その前日に、高円宮典子さまと千家国麿さんの婚約報道がなされたため、祝福ムード一色の出雲路でした。
29日は、全国大会二日目に参加し、全国から集まって来た方々と交流を深める事が出来ました。北海道第三宗務所で登壇奉詠された小・中学生講員、子供たちが着ていたのは、北海道らしいラベンダー色のTシャツです。実は、それを作製した寺族さんによると、私が巡回先でアドバイスしたことを参考に作ったとのことでした。そういえば、子供たちが登壇する時何を着たらいいでしょうね?という相談を受けた記憶がありました。その子供たちと一緒に記念撮影をさせてもらって大変うれしく感じ良い記念になりました。
アトラクションの石見神楽と閉会式が終わり、いよいよ退場の時間となりました。大勢が参加する全国大会ですので、退場には、長い時間がかかります。しかし、司会の人との会話で過ごすその時間も楽しいひと時です。 いよいよ茨城県が退場という時になりました。まだ残っていた地元の講員さんや、退場を待つ他県の講員さんが手を振っていました。外へ出るところでは、スタッフの皆さんが一人一人に声をかけて、見送ってくれました。おもてなしの心があらわれた挨拶は、本当に心に届くものだと改めて感じた次第です。
皆生温泉にもう一泊し、翌日は、足立美術館を見学し、横山大観の大作をたくさん観ました。茨城県出身の横山大観の作品に島根で出会ったわけですが、来月は、映画「天心」を通して、横山大観の生きたその時代について、綴ってみたいと思います。
全国大会の様子は、袋田の住職のブログ「山寺日記」やユーストリームで視ることができます。
東北の桜を観てきました・・・その2
5月は、梅花流の全国大会が島根県であり、出雲大社にもお参りしてきました。その御報告は後日改めてさせて頂くこととし、先月お約束した、東北の桜のお話をさせていただきます。
4月16日、三春の滝桜、白石川の一目千本桜を見たあとは、石巻へと向かいました。平成24年3月31日に桜の植樹に行った観音寺の境内には枝垂桜が見事に咲いていました。二年前に植えた桜はまだ開花していませんでしたが、きちんと手入れがなされ、つぼみが大きく膨らんでいました。その後、大川小学校でお参りし、南三陸へと向かい復興の様子を見てきました。震災の年の7月に縁台を運んだ登米市津山の横山仮設住宅には、大子町から贈られた縁台が今も使われているのを確認しました。
時間はかかっていますが、かさ上げ工事が行われ、少しづつ復興へ向かっている様子を感じました。
23日には、八重の桜で紹介された石部桜を見に会津若松へと向かいました。磐梯山を見ながら喜多方へまで車を走らせ、朝のラーメンを頂きました。近くには会津白虎隊の悲劇で有名な飯盛山があるので、さざえ堂や自刃の地などをお参りし、遠くにそびえる鶴ヶ城を眺めました。鶴ヶ城では満開の桜と赤瓦で葺き替えられた天守閣を撮影することができました。
ドラマの効果で大勢の人が、早朝から会津を訪れていました。しかし、まだまだたくさんの人が、会津若松市内にも設置されている応急仮設住宅に仮住まいしているという事実があります。
茨城新聞郷土紙批評の5月分では、世界に誇れる茨城の教育の伝統というテーマで述べさせて頂きましたが、「ならぬことはならぬ」の教えが今も生きている会津藩の教育文化も日本人が誇れるもののひとつだと思います。地域振興は、人を育てることに尽きるでしょう。教育文化を大切に地域の子供たちを育てていきたいと思っています。
全国大会では、島根県の皆様のおもてなしの歓待に心打たれました。ブログでも紹介していますが、来月あらためてご報告します。
東北の桜を観てきました・・・その1
4月16日、3時に起床し、4時前に家を出て三春に向かった。早朝なら一般道を走り、2時間ほどで滝桜を見に行ける。寒さ厳しく大雪が降ったりした福島、地元の人が対策を施していたので、大雪の被害は最小限にとどまり、樹齢1000年の紅枝垂れの巨樹は、見事なまでにあでやかな姿で、見る人を楽しませ、生きる力を与えくれた。
滝桜の撮影を終えても、時間はまだ6時20分だったので、さらに足を伸ばすことにした。郡山東インターへ向かう途中に、大熊町の人が住んでいる応急仮設住宅があった。まだまだ、震災と原発事故の影響が続く福島の現状であるので、福島を訪れることで支援を続きたいと思う。
その後、安達太良連峰、東吾妻の山並みを見ながら北へと向かった。次の目的地は白石川の一目千本桜である。一年前に檀家さんとバス一台で見学し、昨年5月の法話でもふれたところではあるが、昨年の大河原町ではなく、柴田町の方へ向かった。船岡からは蔵王の雪山を入れて一目千本桜を撮影することができた。そこには日本最大といわれるソメイヨシノの大木もあった。昨年も述べたが、ここの桜の素晴らしさは、ソメイヨシノでありながら、テングス病や病害の枝がきれいに取り除かれていることである。行き届いた手入れにより、このすばらしい景観は保たれている。地域の方が桜を守り、努力を重ねていることに思いをはせた。
そのあと、何度か訪ねた石巻から南三陸まで行き、被災地の様子を見てきた。また、翌週には会津へ行き、八重の桜で登場した石部桜や鶴ヶ城の満開の桜を撮影してきた。先月の法話で皆さんに勧めた以上、自分でもいかなければ口だけになってしまう。今年は自由になる日があったので実現できた。
石巻、南三陸、会津若松の様子はブログ「山寺日記」でも紹介しているが、来月改めて法話としてまとめてみたいと思っている。
大震災から三年たって・・・
4月1日の今日、境内にそびえる樹齢90年のソメイヨシノが開花しました。寒さも厳しく大雪も降った影響で梅の開花は遅れましたが、桜の開花は例年よりいくらか早いような感じです。桜が咲くといよいよ春本番です。心も体も軽くなる気がします。
大震災から三年となる3月11日に、茨城新聞では「復興へ一歩ずつ」と題した16ページに及ぶ特集号を発刊した。3月分の郷土紙批評で、そのことについてもふれさせて頂いた。停電、断水、そして建物、道路、鉄道の被害などで、大変な思いをしたにもかかわらず、すでに遠い記憶となっている自分に気づく。沿岸部の被災地では、未だに仮設住宅暮らしから抜け出すめどさえ立っていない人々がいるのにである。
今日のニュースで、田村市都路地区の避難指示区域の指定が解除されたと伝えられた。都路地区ときいて、ピンとくる人は少ないかと思うが、私の従兄弟が住職を勤めるお寺があり、子供のころから何度も行っている私にとっては懐かしい場所である。
従兄弟は私より一歳年上の55才、すでに長男が結婚し、孫もいて普通に暮らしている。そ普通に暮らせることの有り難さを感じられる春であろう。4月に入ると、福島県内を桜前線が彩っていく。三春の滝桜は有名だが、その周辺にはいろいろな桜の名木があるし、会津には八重の桜のモデルになった樹もある。皆さんにもぜひ福島を訪問し、美しい桜を見てほしい。有名でないお寺の境内にもびっくりするほど見事な桜が有ったりするのが福島だ。
桜が散れば、山桜と新緑が山を美しく染めていく。春になれば当たり前に咲く桜、そこに普通の暮らしが有ることは、実は有り難いことなのであると改めて感じた三年目の春である。
大雪から学んだこと
記録的な大雪が関東甲信地方を襲った。2月8日朝から9日未明まで降り続いた雪は、30cmに達し、境内は雪で真っ白になった。日中の最高気温が氷点下という中で降り続いた雪は、川にまで降り積もり、見たことのないような景色が広がっていた。
9日は、境内やお寺の前の国道の歩道の除雪をしたあと、連れ合いと中学生の光尚と通学路の除雪に向かった。凍りついてしまうとどうにもならなくなりとても危険なので、夕方までに除雪しようと思ったのである。500mほど除雪したところで、向こうから除雪してくる人と一緒になり、作業は一気にはかどった。やはり、小学生の通学路を除雪しようと隣の地区の皆さんがこちらへ向かってきたのである。その他の地区でも、北向きや橋の上など危険な場所の除雪を知己の皆さんが行っていた。翌日、アイスバーンになったところには、建築会社の人や学校の先生が融雪剤を撒いて安全を保った。
今回の大雪では、農作物に大きな被害が出たり、交通機関への影響で大変な思いをした人も多いと思う。そうした中で、雪による交通障害で立ち往生した人に、地域の人が援助したり、トラックの運転手さんが配送中のパンを非常食料として、まわりの人たちに配ったりという姿がみられた。東日本大震災で再認識された人と人との絆が困難な状況の中で機能した例と言えるだろう。
東日本大震災から間もなく3年、大きな被害を受けた日本人だが、そこから多くの事を学んだ。これからも様々な困難が待ち受けているかもしれないが、いざという時の為にしっかりと備えをしておかなければならないと感じた大雪であった。
寒くなんかないよね
1月から6月まで、茨城新聞の郷土紙批評を担当することになった。私は、上期を担当するので、毎月1日~15日までの記事を読んでの感想を寄せるという役目である。第一回のテーマは、おくやみ欄の役割について書かせて頂く予定で下書きを書いておいた。そんな時、菊池盛昌さんの訃報が届いた。翌朝茨城新聞のおくやみ欄で、改めて、確認し、そのことについて書かせて頂いた。「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」この歌は室町時代の禅僧一休禅師が詠んだとされるが、実際は江戸時代の俗歌のようだ、その証拠に、一休禅師の生きた時代に一里塚はない。しかし、お正月ごとに死は確実に近づいている。
重度の脳性まひにより。車椅子での生活を送りながらも絵画や音楽、著作に多彩な才能を表した盛昌さん。メールで意思の疎通ができる様になってからは親しみを込めて盛くんと呼んでいた。昨年、龍泰院のロゴマーク作製をお願いした時も、快く了解してくれた。
茨城県立こども福祉医療センターに、盛昌さんの描いた「寒くなんかないよね」という雪の上にいる親子の馬の絵があるという。その絵に励まされたという方が掲示板に書き込んでくれた。実は、盛くんがメールを打つ時、一文字、一文字、苦労しながら打っていたようだ。大きな馬の絵を描くのも大変な事だったと思う。新聞記事ではあえて触れなかったが、絵の才能を育て、開花させたお父さんとお母さんの苦労は大変だったと思う。 そんな、彼の絵が人の心を打たないはずがない。生きる希望、思いの強さが、一筆一筆に込められているからだ。
午年の正月に旅立った盛くん、彼の絵はこれからもずっと希望を与えてくれることであろう。
熊野那智大社と青岸渡寺
龍泰院は、山号を熊野山といいますが、これは、開創当時熊野山羽黒院光明寺と名乗っていた上金沢の山上にある本寺常明寺さんが、月照山羽黒院常明寺号と改名された際、熊野山という山号を譲り受けたと伝えられています。熊野山、あるいは羽黒院などという名前から、修験道や山岳信仰にちなんだ信仰からできた寺であることが推察できます。
仏教が日本に伝来し、日本にそれまであった自然崇拝などと一緒になり、神仏が一体となった信仰が生まれたものと思います。実際、那智の滝の近くにある熊野那智大社は、西国三十三観音巡礼の一番札所、青岸渡寺と隣り合わせに建っています。高さ133mの那智の大滝も御神体です。花山法皇が西国霊場を巡礼して詠んだ歌がいわゆる御詠歌の基になったとも言われてますし、皇族、都の上流貴族、平家一門なども熊野詣でを熱心に勤めています。やがては、庶民にもその信仰は広まっていったのです。
高野山では、しめ縄の代わりに、紙を切って作った宝珠や干支などをあしらたものを飾ります。1000m近い山の上にあり、田んぼがない高野山では、藁を手に入れるのが難しいので、そのような風習が生まれたようです。高野山から熊野地方の神社仏閣を巡り、日本人の信仰の原点がここに有ったのだと思いました。熊野那智大社への467段の階段を登る途中、那智黒石を彫って作った八咫烏をサッカー部で頑張っている光尚に、お土産として買って帰りました。神武天皇が大和に入る時、紀州険しい山を導いてくれたと神話に登場する八咫烏です。日本サッカーの守り神でもあります。今年は、ブラジルワールドカップの年です。新年にあたり、日本代表の活躍を祈りました。
殺生が禁止された霊場、高野山
10月に曹洞宗茨城県宗務所主催の檀信徒研修で高野山へ登りました。登りましたといっても、今は車で標高約1000mの山の上に広がる平地、高野山へと行く事が出来ます。紀ノ川沿いからさほど広くない道路をバスは、すれ違いに苦労しながら登って行きました。大門の前を通過すると、山の上の街並みが現われてきます。今でこそ、簡単に登れるようになりましたが、かつては、山道を苦労して登る霊場であり、女人禁制ということで女性の立ち入りが禁じられた場所でもありました。
永平寺や總持寺といった曹洞宗の大本山へは研修等でよく行きますが、真言宗の総本山である高野山へ行くのは初めてでした。奥ノ院、金剛峰寺、壇上伽藍等をお参りし、宿坊に泊り研修しました。時の関白豊臣秀次が天下人太閤秀吉によって追放されたのもこの高野山です。かつて、女人禁制、殺生が禁じられた聖地であるというのは、石童丸の物語でもわかります。四国八十八か所を巡礼した人がその最後に奥の院へお参りに来ることも今回知りました。
そこで、不思議に思ったのは、そこに逃げ込めば命を奪われることのない霊場高野山、そこに追放された秀次はなぜ、そこで切腹したのかいうことです。秀吉が切腹を命じたというのが一般的な説でしたが、最近になって、時間的な経過からみても、秀次は自ら切腹したのではないかという説が出てきました。私も、その説が本当だと思いました。 奥の院へ行くと黒田、前田、佐竹、といった大名、大企業の供養塔がたくさん立ち並んでいます。黒田家の供養塔の近くには、豊臣家、徳川家、織田家の供養塔があります。それをみると、争いの絶えない戦国の時代においてさえ殺生が禁じられた高野山は、人々にとって特別な場所だったのです。
宿坊に一泊した後、バスは熊野へと向かいました。熊野を訪れたのは二度目でした。龍泰院は、熊野山という山号です。古から信仰を集めた熊野、そこが、どうして信仰を集めたのかを学ぶ旅になりました。