月々の法話

月々の法話

笑顔を取り戻し強く生きていくために


今年も残り少なくなりました。11月に続いて「新亡精霊供養御和讃」の解説です。

新亡精霊供養御和讃 
3、香華(こうげ)供えて調(ただ)す身に
   想いはおのずと深まりて
   安寧(やすらぎ)念(ねご)う祈りこそ
   蓮(はちす)の開く 縁(えにし)なり

 三番の歌詞は、安らぎを願う 「祈念」ということが書かれています。葬儀の前後は、その準備や後片付けで慌しく、人の出入りも多く、亡くなった方を方を偲ぶ心の余裕はありません。時間が経過するにしたがって悲しみは深まるものです。

 私の母は39歳の時、夫である私の父と死別しました。急な逝去だったので何がなんだかわからないうちに葬儀に関する一連の行事が過ぎていきました。人の出入りも少なくなった頃、夜、一人泣いている母の姿を見ました。そうした母の姿を見るたび私もつらい思いをしたものです。人前では気丈に振舞っていても、かけがえのない人との別れの悲しみは、いかんともし難いものです。そうした日々の中で、再び歩み出す気力を持つには時間がかかります。心の整理をつけ、亡き人の成仏を願うような心境になるまでにはいろいろあるでしょう。霊前で故人と向きうということを通じて人は、現実を受容し、安寧を願う気持ちを持つことが出来るのではないかと思います。

 4、七七(供養(しちしちくよう)の毎日(ひおくり)に
   戒名(みな)を称えて掌(て)を合わす
   行持(つと)むる而今(いま)のまごころを
   回(めぐ)らし手向(たむ)けん みほとけに
   回(めぐ)らし手向(たむ)けん みほとけに

 四番は「回向」、すなわち自らの善行を手向けるということについてです。
10月に巡回した愛知県では、この七七供養が行なわれていました。週に一度僧侶が訪れ、読経をし、故人を供養し、残された家族との対話により、心を癒してくれます。遺族の話を聞いてあげるだけでもそれが癒しになるのです。 身近な親族や友人もその手助けとなってしてくれると思います。しかし、死という厳しい現実を受け入れ、再び力強く生きていくには大きな力が必要です。それが神仏ではないでしょうか。宗教者としての僧侶の役割はそこにあると思います。

 11月28日~29日、大本山總持寺へ檀家さんとともにバス一台で参拝してきました。前回は昭和49年でしたから34年ぶりです。前回40歳だった母は74歳になりました。中学3年だった私も47歳です。今回、旦那さんが亡くなった方や奥さんに先立たれた方も多く参加されていました。今年、親を亡くしたばかりの方もいます。大祖堂で先祖供養をしていただき、誰もが晴れやかな気持ちになったようでした。
 悲しみを乗り越え、笑顔を取り戻し、明るく元気に生きていく。それが、亡き人への何よりの供養だと感じました。

2007-12-01 | Posted in 月々の法話Comments Closed 

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