月々の法話

月々の法話

袋田の滝新観瀑台が完成しました

 9月8~12日まで、梅花流特派巡回で栃木県の北東部を巡回してまいりました。一年前は台風接近で中止になたっということでしたが、今年は幸い心配した台風や雷にも遭わず無事に勤める事ができました。栃木は平地が広がっていて、しかも雷の発生が多いということもあり、雷のことをこの地域では「らいさま」と呼んで警戒しています。雷雲が近づいてくる時は、児童達も下校を控えるそうです。

 栃木から戻った翌13日、袋田の滝に新観瀑台がオープンしました。新しい観瀑台は今までの観瀑台より約50m高い所です。ほぼ滝の最上部と同じ高さから滝の全景を観る事ができます。そのオープンセレモニーには、地元の小学校に通ううちの子供たちも鼓笛隊で参加しました。そのあとには隣町に拠点をおくオカリナの宗次郎が出演しました。袋田に美しいオカリナの音色が響いたそうです。こどもたちは、新観瀑台に上るエレベーターに行列して待っている一般の観光客よりも先に上らせてもらえたそうで、地元の名勝の絶景を瞼に刻んだことでしょう。私も数日後にエレベーターで新しい観瀑台に上り今まで見られなかった眺めを堪能しました。
 この夏は雷雨が多かったせいか水量も豊富で、エレベーターで上っていくにつれて轟音が大きくなっていきます。エレベーターを降りるとそこは第1デッキです。目の前には木々が繁り、滝は見渡せませんが、貴重な植物が自生しているのを観察することができます。第二デッキは今までカメラマニアが崖道を登って撮影していた地点です。袋田の滝がモミジとケヤキの枝越しに見えます。このモミジが真っ赤に紅葉する時は写真撮影の絶好のポイントです。この第二デッキから階段を上がると最上部の第三デッキです。今まで観られなかったアングルで滝が見渡せます。

 梅花流詠讃歌の正行御詠歌に 「冬雪の いのち伝えん 春ははな、夏ほととぎす 秋はもみじば」とありますが、四季折々に輝きを見せる袋田の滝は別名「四度の滝」とも呼ばれています。景観だけでなく、野鳥や貴重な植物が自生する自然豊かな自然を多くの方に堪能して頂きたいものです。

2008-10-01 | Posted in 月々の法話Comments Closed 

 

ゲリラ豪雨対策

 「ゲリラ豪雨」耳慣れない言葉が、人々を襲い、そして、ニュースとして流れました。これまでも、夏の終わりごろ寒気が入って雷雨が起こることはありましたが、今年のように、連日、連夜雷鳴を伴った大雨が降ったという記憶はありません。秋の長雨といえば、シトシトと降るイメージが強いので本当に意外な天候です。
 日本の都市部は、表面をアスファルトやコンクリートで固め、できるだけ早く流す構造だそうです。降った雨が地面にしみこみ、地下水となってゆっくり流れていった頃とは違うようです。
 大都会で雨が降ると地下街で雨宿りする人も多いそうですが、地下街に大量の雨が流れ込んだらそれこそ大惨事になるでしょう。人間は魚ではないので水の中で呼吸ができませんから・・・
 私の住んでいる山間部でも1時間に100mmを超えるような大雨が降りました。家屋浸水の心配のないところではありますが、急な斜面の土砂崩れは心配です。

 こうした豪雨が起こるようになったのも、二酸化酸素の大量放出や原生林の伐採を原因とする地球温暖化の影響であると考えるのが妥当でしょう。ゲリラ豪雨の被害者をこれ以上出さないために応急的な対策をとらなければなりませんが、もっと根本的なこととして、こうした気候変動を生み出す地球温暖化の問題と取り組んで行かなければならないと感じさせられた暑い夏でした。

 今月は梅花特派で栃木県を巡回します。栃木県といえば、雷の多い地域、嵐がこない事を祈っています。

2008-09-01 | Posted in 月々の法話Comments Closed 

 

嫌なニュースが多い世の中ですが

 7月も、大きな地震、局所的な豪雨による水害が起きたり、、、無差別殺傷事件など痛ましい事件が起こりました。犯罪自体は減少傾向にある中で、世間を賑わすような事件が起こるのはなぜでしょうか。かけがえの無い人を失った方の気持ちを考えると、とても他人事のように思えません。先月は東京へ行く機会が三度ほどあったのですが、ある駅で電車を乗り換えようとすると、ホームで騒いでいる声が聞こえてきました。すでに反対方向へと降りるエスカレーターに乗っていたので詳細はわかりませんが、誰かが大声で怒鳴っていたようです。このように何かをきっかけに、公衆の面前で、回りの人に怒りをぶつける人が多いと聞きましたが、それを、目の当たりに見ると本当に嫌な気分です。

 無差別殺傷事件の犯人が口にしたという「誰でもよかった。」「親を困らせてやりたかった。」という理由、子供じみていると思いませんか?親を困らせようとダダをこねるのは小学校低学年まででしょう。少なくても成人した人間が言い訳にできる言葉ではありません。このあたりに、家庭での親子の関わりにおいてうまくいかなかった部分、お互いに理解し合えなかった部分が見えてきます。

 今の時期、刈り込んだサツキの新芽が伸びてふぞろいになる時期です。手作業で切りそろえるのですが、植木の手入には、人を育てるということに似たところがあります。無関心、放任は一番悪い結果を生みます。人間も同じで自由放任主義で育った人は自分勝手になりやすいのです。木全体を見てハサミを入れて刈りそろえなければ植木は形になりません。ハサミを入れるという作業が大事なのです。
 それから、新芽を出すのには適切な施肥が大事です。これは土作りでもありますが、肥料がないと元気のよい新芽は伸びてきません。それから、太陽の恵み、水やりも欠かせません。自然の恵みがなければ植物は立派に成長できません。これは、人を育てる時には回りの人の愛情に当るのではないでしょうか。
 病気になったり害虫がついてしまった時は、早めに薬剤散布をする必要があります。放置しておくとあっという間に葉が無くなったり、変色して落ちてしまいます。
 過保護、過干渉も成長を妨げます。いつも愛情を持って見て、言葉をかけて、それでいて自主性を育んでもらう。実際に人と向き合うと難しいことですが、時には自分が子供の頃にした失敗談などを同じ目線で話しをしてやると、ギクシャクしていた関係がうまくいったりします。親や回りの人に逆らったりするのは、いわば成長の証しでもあります。子供はそうした葛藤の中で心を育てていくのです。植木はすぐに応えてくれますが、人間としての成長の結果が出るまでには長い時間が必要ですね。長い目で余裕を持って見守ってあげたいものです。

2008-08-01 | Posted in 月々の法話Comments Closed 

 

岩手巡回を終えて

 6月14日、朝のニュースで緊急地震速報が流され、茨城でも、その直後に大きな揺れを感じました。5月末に福島での梅花流全国大会の後、茨城県の宗務所梅花講一同で、水沢の正法寺を訪れたばかりでしたので大変驚くとともに、大変心配いたしました。
 6月下旬に梅花流特派巡回で岩手県を巡回した時、尊い人命が失われ、まだ行方不明になられたままの方がいるとのことで、岩手県宗務所でも対策本部を設置し、情報収集と復旧活動を行なっていました。
 寺院には位牌など倒れやすいものが多く、額なども大きな揺れで落下したりします。境内や墓地の石の構造物も倒れやすく、大きな地震の時には甚大な被害を受けます。地元では宗務所や青年会が中心になって復旧へのお手伝いをしているとのことですので、私も本堂においてあった義援金の箱に少しですが入れてきました。

 心配な面も多かった岩手巡回ですが、私が担当した地区が北のほうだったこともあり、また、地元の皆様に大変良くして頂き無事に全日程を予定通り勤めることができました。
 海の幸が豊かで陸中海岸の絶景が広がる宮古から、自然が豊かで古くからの歴史が残る九戸、二戸、紫波といったあたりを回ったのですが、岩手は本当にひろいなぁと感じました巡回でした。特に盛岡から宮古へ抜ける道路は、山の奥深さを感じながらの二時間半の移動でした。

「峰の色 渓の響きも みなながら わが釈迦牟尼の 声と姿と」

と道元禅師は歌に詠まれました。豊かな自然は本当に人の心を豊かにしてくれると思います。
 洋野町大野という地区では、子供たちが給食で使う食器や箸などをすべて地元産の木材から作っているそうです。いろいろ学ぶことの多い巡回でした。
 帰りの新幹線からは被害の大きかったあたりにある栗駒山が良く見えました。被災地の復旧を願いながら自坊へと向かいました。

2008-07-01 | Posted in 月々の法話Comments Closed 

 

雨ふらばふれ、風ふかばふけ

 雨が多い5月でした。台風のような猛烈な雨風があったり、梅雨に入ったかと思わせる冷たい雨が降り続いたりしました。じめじめした雨が続くと心も重くなるような気がします。

 そんな中で、大子ジュニアレスリングクラブ結成25周年の式典に招待され、福島大学教授白石豊さんのお話しを聴く機会がありました。白石先生は、多くのトップスポーツ選手の心理的サポートを行い成果を上げている方です。
 本番に強くなるにはどうしたらいいか、どういう心理状態でいればよい結果が出るかを研究し、選手のサポートに生かしています。その中で、姿勢が大事であると言う話しをされました。形から入るのが一番手っ取り早いというのです。そういえば、坐禅もそうです。身を整え、息を整え、そして心を整えていきます。姿勢といえば、腰から三つ上の背骨を前に突き出すようにして背筋を伸ばし、上半身の力を抜くと一番安定して揺ぎ無い体勢を作る事が出来るという話しでしたが、まさにそれは坐禅をする時の姿勢です。

 心の持ち方としては、緊張して震えがきた時、それを止めようとするのではなく、緊張するのは当たり前、と冷静に自分の状態を把握し、多少はプレッシャーがあった方が力が出せると考えれ良いのだそうです。
 もし、嫌になるような暑さの日でも、暑いのは相手も同じ、自分は暑さには強いし暑くても平気だと考え、もし、雨が降っている状況で試合をしなければならなくなったら、滑ったらどうしよう・・・などとマイナス面を考えるのでなく、雨に対する備えは出来ている。雨によって、自分の方が有利になると考えれば良いそうです。

 こうした心の持ち方も禅の教えに通じるものがあります。一休禅師が詠んだといわれる歌には「雨ふらばふれ、風ふかばふけ」という言葉が出てきます。道元禅師も「暑熱をおづることなかれ、暑熱いまだ人をやぶらず、暑熱いまだ道をやぶらず。ただ、不修をおづべし。」と『正法眼蔵行持の巻』の中で述べられています。暑いなぁ、寒いなぁと愚痴を言っても暑さ寒さが和らぐわけではありません。それよりも、暑い日には汗をかき、雨の日には雨を楽しむ生き方をしてみませんか!

2008-06-01 | Posted in 月々の法話Comments Closed 

 

懐かしい鯉のぼりプロジェクト

 5月5日の端午の節句、3月3日の桃の節句、日本人は昔から子どもが生まれると人形を飾ったり、幟を揚げてお祝いしてきました。子どものすこやかな成長を願う親の思いが現れた行事です。
 茨城県北部山間部の奥久慈地方では、昔から端午の節句に鯉のぼりを盛大に行なう風習がありました。竿から三方にロープを張り、20匹から30匹もいっぺんに揚げるのです。五月の青空に元気に泳ぐ鯉のぼりが新緑に映えて、それは美しく豪壮な風景でした。

 しかし、過疎化、少子化の影響で男の子が生まれる事がしだいに減り、揚げる場所の確保や技術の継承という問題もあり、昔ながらの豪壮な鯉のぼりが見られなくなりつつありました。
 そこで、地域の人たちが協力し、昔ながらの鯉のぼりを揚げようと、実行委員会を立ち上げ、昨年から袋田地区各地に「懐かしい鯉のぼり」を揚げています。
 うちでも、長男が生まれた翌年の平成13年から三年間揚げていたので、今年は場所を提供し協力することになりました。

 先月は、全国各地で花壇やプランターの花が荒らされ、水戸の千波湖では、白鳥や黒鳥が殺されるという痛ましい事件が続発しています。現代人の心の退廃、公共心の欠如ということが進んでいるような気がします。そのようなことに、我々宗教者も地域の人たちも、手をこまねいているばかりではありません。地域社会を自分達で守っていくんだという意識で、ボランティア活動をしている人が増えてきています。団塊の世代の大量退職で、地域社会に貢献できる人材が増えています。
 懐かしい鯉のぼりプロジェクトも、強風が吹いて鯉のぼりが絡まったり、やぶれたりすれば降ろして修復しなければなりません。木を切り出して、皮を剥くのも大変な作業でした。今は重機がありますし、大勢でワイワイガヤガヤやりましたので楽しい作業でしたが、昔は、家族や親戚で子どもの成長を願いながら建てたのだろうなと思うと、本当にありがたいものだと思います。
 今年は5月18日まで、揚げ続ける予定です。地域の子ども達の幸せを願って地域の人たちが協力して揚げたたくさんの鯉のぼりが袋田の大空に泳いでいます。

住職のブログ山寺日記「懐かしい鯉のぼりプロジェクト」

2008-05-01 | Posted in 月々の法話Comments Closed 

 

ずっと歩いてきました・・・

 3月31日に龍泰院を出発した、茨城県曹洞宗青年会の慰霊行脚の一行が4月2日に水戸の祇園寺さんに無事到着しました。今回は3日間という短い日程でしたが、冷たい雨がふったり、強風が吹き荒れたり大変だったと思います。

 出発式の時、挨拶をさせていただきました。「交通事故遺族は、突然の悲しみになかなか心を癒されることはありません。事故現場へ毎月行って花を手向ける方もいれば、胸を締め付けられるような思いがして、事故現場に近づけない方もいます。亡くなった人の無念の思い、そして、遺族の方の思いはこの冷たい雨が表しているのかもしれません。10年間交通事故撲滅運動に取り組んできた皆さん方が慰霊に来てくれたことで、この地の交通事故殉難者はきっと安らぎ得ることでしょう。そして、遺族の方も癒されると思います。」と・・・
  10年前、私が青年会会長の時、茨城県縦断慰霊行脚として北茨城から守谷まで、7日間かけて歩いたのが、始まりでした。それから、青年会では、毎年春と秋に県内各地で慰霊行脚を行い、5年前には結城から大洗まで5日間かけて、茨城県横断慰霊行脚(月々の法話2003・6・1「菩薩がいた」参照)を行ないました。

 法律の厳罰化、車の安全性の向上により確実に交通事故死者は減少してきました。しかし、幸せに暮らしていた人が、突然、被害者や被害者家族として、または、加害者として苦しみのどん底に叩き落されるのが交通事故です。
 そうした人々の苦しみ悲しみを救えるのが菩提心を持った僧侶だと思います。今回初めて参加した人は、想像以上の足の痛み、風の冷たさを感じたことでしょう。それは、実際に歩いてみないとわからないことです。いつも車で通り過ぎる場所も自分の足で歩いてみると、いつもと違う景色に気づき、そこに暮らす人たちとふれあうことが出来るはず。きっと貴重な体験をしたこと思います。

 祇園寺さんへたどり着いたとき、水戸は桜が満開になってました。10年かかりましたが、なくなった方の無念の思いが癒されたのかな?そう思わせるのどかな春の夕暮れでした。

2008-04-03 | Posted in 月々の法話Comments Closed 

 

野鳥たちがかたること

 袋田には多くの野鳥が生息しています。滝川沿いを歩くと、綺麗な色のカワセミやルリビタキ、ジョウビタキや川の中を歩き回るカワガラスなどが見られます。そして、運がよければヤマセミが見られることもあります。また、シジュウカラやエナガ、メジロなどが群れをなし、林にはコゲラやアオゲラなどが住んでいます。上空に目をやると、オオタカやハイタカ、ノスリなどが飛んでいることもあります。

 野鳥のなかには、渡り鳥のように季節ともに移動する鳥がいます。国境のない地球を実感できる瞬間です。しかし、地球温暖化はこれら自由に大陸間を移動する野鳥たちにも大きな影響を与えます。また、野鳥への餌付けや、湖沼の汚染など、人為的なことも生態系に影響を与えているのです。放置された釣り糸が野鳥にからまったり、過剰な餌付けや鳥インフルエンザの問題も人間と野鳥の関わり方ということの難しさを示しています。

 袋田に生息する野鳥を撮影し、ブログの山寺日記へアップしましたが、多くの方に野鳥が生息する自然の豊かさに興味を持って頂きたいと思ってのことです。それが、自然を大切にしようと思うことへつながってくれればと思います。
 袋田の滝付近に住むメジロは鳴き声がとても美しいそうです。それは、滝の轟音に負けないよう大きな声で鳴いているうちに得られるとか?去年見られたウソやヤマガラ、ベニマシコなどが今年は見られないということもあります。人間は、野鳥達がかたる何かに耳を傾けて行かなければならないと思います。

2008-03-01 | Posted in 月々の法話Comments Closed 

 

親離れ、子離れ

 小さい子どもは、あるとき自分でいろいろやりたくなるそうです。たとえば、お母さんのお手伝いとか・・・。子どもは最初から上手くいきませんので、失敗したり、親に手を貸してもらうことになります。この最初の自立の機会をどのように体験させるかが、その後の人生にとって重要なことなのです。
 子どもにやらせるよりも自分でやったほうが簡単ですから、もし、子どもがやりたいという時に手伝いをさせなかったり、そんなにいうなら勝手にやってみろ!と突き放してしまったら、子どもは思うようようにうまくいかず、いじけてしまったりします。そうした態度は貴重な子どもの自立の機会を奪うことになってしまいます。

 同じようなことが、思春期にもあります。今、私は娘の通う高校のPTA会長を務めているのでそのような時期を迎えた生徒たちと接する機会が増えました。子どもは、自分で判断して、自分の力で解決したいと思うようになります。しかし、自分の力だけでは上手くいかず失敗したり、回り道をしたり・・・。親としては、子どもが転ばないように口うるさく言ったりしたりしますが、逆にそれをうっとうしく思われたりもするものです。人からいくらいわれてもわからないことも、自分が怖い目にあったり、大きな失敗をして初めてわかるものです。人間は、失敗から学ぶことが多いです。そうした経験を重ねながら、やがて、子どもは自分の力で歩んでいくことになるのでしょう。そうすると、今度は、親の方が子離れをしなければならないときを迎えるのかもしれません。
 しかし、実際は、これが中々難しいようです。親も自分の趣味を持ったり、人生というものへの考えを深めたりしていくことが必要だと思います。
 「本来無一物」という禅の教えが一つの答えを示してくれるかもしれません・・・。

2008-02-01 | Posted in 月々の法話Comments Closed 

 

ねずみ年男が願うこと

 今年はねずみ年、昭和35年生まれの私も四度目の年男、ねずみ男ならぬ、ねずみ年男と呼べるのではないでしょうか。昨年、長男で小学校2年生のこうしょうをつれて、東京タワーに登ってみました。東京タワーが出来たすぐ後にこの世に生を受け、新幹線の誕生の頃幼少期を送った私は、この時代に懐かしさを感じます。

 子供の頃、お正月休みは田んぼや池でスケートをしてすごしてました。暖冬で池の氷も厚く凍らない今は、スケートをすることも少なくなりました。これは、間違いなく地球温暖化の影響だと思います。私が、次の年男を迎える時、、すなわち還暦になるのは、2020年です。12年先のことはわかりませんが、無事に生きていれば、さらに、温暖化している地球を見ることになるのかもしれません。
 2050年には、こうしょうが今の私の年になります。現在より進歩して便利になっているのか?それとも、環境がさらに悪化して暮らしにくくなっているのか?気になります。まだやってこない未来を心配してもしょうがありませんが、未来への責任は、現代に生きる我々にあることは間違いありません。

 人類が地球上で生き長らえていくには、地球に迷惑をかけない存在でなければならないと考えます。人類、すなわち私たちの子孫が、平和に暮らしていけることがねずみ年男の願いです。

 そういえば、その昭和の時代、戦後の大変な時代をたくましく生きた佐賀のがばいばあちゃんの講演があります。
 3月8日、水戸の県民文化センター大ホールで行なわれる、茨城県曹洞宗青年会の創立50周年記念講演会に島田洋七さんが来て、涙と感動のがばいばあちゃんの生き様を話してくれることになりました。どんな大変な時だって、がばいばあちゃんの思いをしたら、生き抜いていける!そう思います。
詳しくは、茨曹青のホームページで・・・

2008-01-01 | Posted in 月々の法話Comments Closed 

 

笑顔を取り戻し強く生きていくために

今年も残り少なくなりました。11月に続いて「新亡精霊供養御和讃」の解説です。

新亡精霊供養御和讃 
3、香華(こうげ)供えて調(ただ)す身に
   想いはおのずと深まりて
   安寧(やすらぎ)念(ねご)う祈りこそ
   蓮(はちす)の開く 縁(えにし)なり

 三番の歌詞は、安らぎを願う 「祈念」ということが書かれています。葬儀の前後は、その準備や後片付けで慌しく、人の出入りも多く、亡くなった方を方を偲ぶ心の余裕はありません。時間が経過するにしたがって悲しみは深まるものです。

 私の母は39歳の時、夫である私の父と死別しました。急な逝去だったので何がなんだかわからないうちに葬儀に関する一連の行事が過ぎていきました。人の出入りも少なくなった頃、夜、一人泣いている母の姿を見ました。そうした母の姿を見るたび私もつらい思いをしたものです。人前では気丈に振舞っていても、かけがえのない人との別れの悲しみは、いかんともし難いものです。そうした日々の中で、再び歩み出す気力を持つには時間がかかります。心の整理をつけ、亡き人の成仏を願うような心境になるまでにはいろいろあるでしょう。霊前で故人と向きうということを通じて人は、現実を受容し、安寧を願う気持ちを持つことが出来るのではないかと思います。

 4、七七(供養(しちしちくよう)の毎日(ひおくり)に
   戒名(みな)を称えて掌(て)を合わす
   行持(つと)むる而今(いま)のまごころを
   回(めぐ)らし手向(たむ)けん みほとけに
   回(めぐ)らし手向(たむ)けん みほとけに

 四番は「回向」、すなわち自らの善行を手向けるということについてです。
10月に巡回した愛知県では、この七七供養が行なわれていました。週に一度僧侶が訪れ、読経をし、故人を供養し、残された家族との対話により、心を癒してくれます。遺族の話を聞いてあげるだけでもそれが癒しになるのです。 身近な親族や友人もその手助けとなってしてくれると思います。しかし、死という厳しい現実を受け入れ、再び力強く生きていくには大きな力が必要です。それが神仏ではないでしょうか。宗教者としての僧侶の役割はそこにあると思います。

 11月28日~29日、大本山總持寺へ檀家さんとともにバス一台で参拝してきました。前回は昭和49年でしたから34年ぶりです。前回40歳だった母は74歳になりました。中学3年だった私も47歳です。今回、旦那さんが亡くなった方や奥さんに先立たれた方も多く参加されていました。今年、親を亡くしたばかりの方もいます。大祖堂で先祖供養をしていただき、誰もが晴れやかな気持ちになったようでした。
 悲しみを乗り越え、笑顔を取り戻し、明るく元気に生きていく。それが、亡き人への何よりの供養だと感じました。

2007-12-01 | Posted in 月々の法話Comments Closed 

 

亡き人の安寧を願う

10月には、愛知県第一宗務所を特派巡回し、七会場で梅花流詠讃歌の指導をさせて頂きました。今年は、新曲『新亡精霊供養御和讃』が発表されましたので、その曲を中心に講習致しました。

新亡精霊供養御和讃

 1、永遠(とわ))の身命(いのち)と 願えども
   無常の風に さそわれて
   愛惜(おし)みて 散れる 花なれば
   別離(わかれ)の涙 頬つたう

 一番の歌詞では、別れの苦しみ、世の無常ということが表現されています。お寺の住職という立場にあると、いろいろな別れの場面に立ち会うことが多くなります。愛する肉親との別れは悲しく苦しいものです。  回りに親戚や近所の人がいるときは気丈に振舞っていることが出来ますが、一人になると悲しみがこみ上げてきます。

 2、揺れる灯明(みあかし) あの笑顔
   あなたに逢えた よろこびと
   深い絆に 結ばれた 
   煌(きらめ)く 慧命(いのち) 忘れ得ん

 二番の歌詞では、霊前にたたずんだ時、揺れる灯明に亡き人の姿を思い浮かべ、有り難いご縁によって巡りあい、ともに過した日々に思いをはせながら、尊い命のつながりと生前に受けたご恩への感謝の気持ちを表しています。

 愛知は、お寺と檀信徒の繋がりが強い地域です。毎月、菩提寺からお檀家さんへ、お経をあげに来てくれます。また、お檀家さんが亡くなると、枕経をあげに駆けつけてくれます。大切な人を失った人も、そうした、供養を通じて心を癒され、悲しみを乗り越え、再び生きていく力となっているのだと感じました。
 3番、4番には、亡き人を供養し、安寧を願う歌詞が綴られていますので、来月の法話でご紹介致します。 

2007-11-01 | Posted in 月々の法話Comments Closed